伝えたい「蔵」の記憶(410)生きぬくヤマ・太平洋炭鉱
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2022.3.28
戦後の石炭産業は、「黒いダイヤ」と呼ばれ、釧路の発展を支える基幹産業でした。国内のエネルギーの転換期を迎えた昭和37年、石炭鉱業調査団による太平洋炭砿の視察が行われ、国内石炭の生産体制の近代化の為の非能率炭砿のスクラップと能率炭砿のビルドの石炭政策が同11月に実施されます。

写真は、太平洋炭砿展示館に展示されている「日本一の大塊炭」です。太平洋炭砿は、国内有数のビルド炭砿として機械化を中心に生産体制の近代化に取り組み、採炭にホーベルと水圧鉄柱を採用、掘進のコンテンニアスマイナーの採用も武器に春採と興津を一本にして、一山一社一坑口の合理化を完成します。
昭和36年の53万㌧台であった出炭が、38年には2倍以上の130万㌧に達し、同40年は173万㌧を出炭。同42年にS・D採炭を採用し、さらにドラムカッターを導入して「同44年200万㌧台に達した」と、太平洋炭砿の生産体制近代化の取り組みを釧路市史が記述しています。
昭和44年1月1日の釧路新聞は、赤字経営など厳しい経営環境の中でも、南益浦新坑での増産への期待と増産を担う炭鉱マンの豊かな生活の提案を報道する「生きぬくヤマ・太平洋炭鉱」を掲載しています。釧路の石炭産業は、明治時代の安田炭砿と大正時代の木村組炭砿を受け継いだ太平洋炭砿が釧路の基幹産業として発展を支えていますが、「生きぬくヤマ・太平洋炭鉱」の新聞報道は、厳しい経営環境に挑戦する炭鉱マンの夢と活力の記憶を伝えています。




