伝えたい「蔵」の記憶(285)捕鯨基地釧路
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2019.3.11
戦後の釧路は、さばの豊漁に続き北洋サケ・マス漁業の再開と漁業が戦後復興期の食生活と釧路経済の活況を支えていますが、昭和27年から10年間全国一の捕獲数を記録する日本屈指の捕鯨も大きな貢献をしています。

写真は、昭和30年の市勢要覧に掲載された鯨の解体光景で、大包丁を手にした6人の作業員が、大きな鯨に挑戦する様に解体作業を行っています。当時の釧路には、副港近くの浜町に極洋捕鯨釧路事業所、米町公園から見える釧路川左岸南端の日本水産事業所と2社が操業しています。
釧路港に捕獲された鯨の種類は、マッコウ、イワシクジラが全体の75%を占め、全国沿岸捕鯨事業所別捕鯨統計を見ると、毎年600頭から960頭が記録され、昭和27年から同36年まで捕獲頭数が全国一位で、厚岸が二位です。釧路、厚岸、霧多布の3港での捕獲頭数は日本の沿岸捕鯨の55%から60%を占めていますから日本の沿岸捕鯨は道東沖が中心のようです。米町公園から見る日本水産の鯨解体工場は、大きな煙突に鯨の解体処理工場、冷凍工場など多くの建物が配置された工場群で、活力ある捕鯨基地釧路港を釧路市民に実感させていました。
捕鯨は、戦後の厳しい食糧事情の中で再開され、鯨肉は高タンパクで低脂肪の上に牛肉、豚肉、鶏肉のほぼ3から4分の1の価格で「戦後の我が国の食生活に大きく貢献をした」と釧路捕鯨史に記述されています。
鯨肉は、戦後復興期の市民の食生活でも、焼き肉、カレーの具材、缶詰、学校給食などに活用され、捕鯨基地釧路の活況の記憶を伝えています。




