その他 蔵の記憶
公開:2026/03/08 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(220)空襲の北大通

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2017.7.31

 昭和20年7月14、15日米軍空母艦載機が釧路地方を空襲。通信施設・造船所・製紙工場・倉庫などに甚大な被害が出ます。7月14日米軍艦載機の攻撃は、1時間から2時間刻みに反復されて5波に及び、翌15日は早朝から3波にわたって繰り返されます。

戦災箇所を示す図

 写真は、釧路空襲(釧路戦災記念会発行)に掲載された橋南、橋北、鉄北の戦災箇所を示す図です。空襲の記録に因ると、「発火点は、旭町旭国民学校ヲ上流発火点トシ、川上町、栄町、末広町、北大通ニ及ブ広域」と記載されています。

 7月14日14時40分集中攻撃を受けていた旭国民学校から火の手があがった。それを皮切りに野村七郎隣の白山湯周辺が続いて燃え出した。火はたちまち猛火となり栄町、末広町、北大通の各所からも出火が続いた。末広町、北大通1、2丁目付近は河川を利用した消火活動、ポンプ自動車を配置し最後まで消火活動を敢闘し、「北大通の線に於いて阻止せり」。

 丸三鶴屋は、延焼区域の一番大きな建物で三方を火に囲まれ、鉄筋コンクリートの威力を発揮した様に思われたが、外部の余熱で店内の温度が上昇し火災が発生し全館使用不能になるなど、中心市街地の戦災と消火活動の状況が記載されています。

 戦時の北大通り商店街は、転業、廃業、疎開などで閑散とし幣舞橋や駅方面から見ると見事な土まんじゅう(防空壕)の行列であったと伝えられています。防空壕と焼け野原の北大通りの光景は、過去に幾度の困難を乗り越えた北大通り商店街ですが、最大の苦難の記憶です。

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