伝えたい「蔵」の記憶(143)西幣舞の水売り
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2015.10.12
大正11年8月1日に市制が施行された大正後期の釧路では、道東の中核都市としての都市機能基盤の整備、市庁舎の新築など、次代の発展への諸策が実施されます。同8年に釧路町施設事業計画が策定され、釧路区制実施申請に際して都市として必須条件32項目を挙げ釧路区施設計画書を添付しています。施設計画書は、爾(じ)後、終戦まで歴代市長が踏襲して変わらない長期総合計画書です。施設計画の第1番目が上水道施設の件でした。(釧路市水道50年史)
釧路の街並みは、飲料水の豊富な橋南地区から飲料水が不足する橋北地区へ発展をしますが、橋北地区の水不足の状況は、明治34年5月29日の北東日報に水道用水調査着手の記事が、同41年7月21日の釧路新聞で「西幣舞を如何にするか」「井をうがっても砂地にして清水を得るに難しく‥」の記事が掲載され、西幣舞の生活用水の問題が提起されています。
大正10年頃の橋北地区の井戸水は飲料不適と水道50年史に記載されています。飲料不適の西幣舞の人々の生活を支えたのが、橋南地区の井戸水を運ぶ水槽馬車が幣舞橋を渡り、「水いらんかね」とふれ歩いた「水売り」です。水の値段は、同8年頃は一担(手桶2杯)5銭、大正10年頃は10銭、当時カレーライスが一杯10銭というから、お茶をがぶがぶ飲む事が出来なかったと古老が伝えています。

写真は、春採公園(現春湖台)に完成した浄水場です。大正13年11月に工事は開始され昭和2年1月1日上水道給水が開始され「水売り」は姿を消します。




