伝えたい「蔵」の記憶(119)西幣舞のにぎわい
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2015.3.16
明治42年3月に釧路港修築案が帝国議会を通過し、釧路港修築工事が着工します。釧路港修築は、鉄道開通以来釧路町民の願望で町民の喜びは非常に大きいものでした。同41年1月21日に来釧した啄木が、釧路港の着工を訴える記事を釧路新聞に残しています。

写真は、当時の滋賀県出身の商人が、釧路港修築を祝って春採湖を望むチャランケチャシに建立した釧路港修築碑です。現在は、釧路港が一望する米町公園に建っています。釧路港修築碑は、黎明期の先人が新天地で夢の実現に奮闘をした記憶を伝えています。
釧路港の修築と鉄道の延伸により、釧路は道東の拠点として商工業、交通・運輸などの都市の機能を充実し、十勝の農産物、沿線の木材資源などの集散地、内陸開拓の拠点となり、鉄道と港を結ぶ橋北の西幣舞は活況を呈します。
西幣舞の様子は、汽車の乗降客が増加し開通当時は旅館その他の設備が不便でしたが、近来は旅館の増築も見られ設備も整頓されてきた。また、鉄道敷設に伴い土地騰貴を当て込んだ投機が見られたと釧路市史に記載されています。
明治42年1月1日電話交換が釧路で開始されました。同42年発行の釧路最初の電話番号簿で西幣舞を見ると、加入者数272で西幣舞は65で全体の23%です。加入者は、鉄道荷物取扱業、雑穀・肥料問屋、木材商などが多く停車場を取り巻くように軒を並べ、西幣舞は、停車場の乗降客、雑穀、木材を運ぶ荷馬車、仕事をする人々で賑わう街でした。賑わいの街は、次代の中心市街地になります。




