その他 蔵の記憶
公開:2026/03/05 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(121)町立病院

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2015.3.30

 明治5年官立病院の設置が、市立病院の始まりで、同12年火災に被災して同13年公立釧路病院が現在の米町公園に再建されます。

 明治45年6月3日米町から西幣舞85番地へ移転落成します。大正11年釧路に市制が施行され、大正12年11月に市立病院が幣舞町に完成し、戦前戦後の釧路市民の医療を支えます。昭和59年9月に春採湖の見える春湖台に竣工しました。市立病院の歴史は、橋南が長いですが、明治45年から大正12年まで橋北にあり、当時の町勢を伝えています。

町立釧路病院

 写真は、明治45年6月3日に落成した町立釧路病院です。場所は、西幣舞84番地、現在の浪花町7丁目付近で、鉄道用地、中川倉庫、日野倉庫が近くに並ぶ西幣舞の外れで、当時の中心市街地から遠方のために町民から不評を買った様です。場所の選定の理由は、橋北の市街地の拡大と、橋南には博済病院、笠井病院などの開業医が集中していたためと釧路市史に記載しています。

 町立病院新築の理由は、町立病院が明治13年建築で著しく腐朽し家屋は傾斜して実用に耐えないため、町の発展に伴い衛生設備の充実が必要であると、明治45年6月4日の釧路新聞に記述されています。町立病院は、板塀で囲まれ、隔離病舎、行路病人収容所、精神病者の部屋を備えた近代的な建物で、名匠と云われた工藤恒吉が棟梁です。

 明治40年代の釧路は、電話の開通、電気点灯、東宮殿下行啓と公会堂の新築、釧路中学校の開設決定など近代的な文化の兆しが感じられます、町立病院は、釧路の新時代の文化の記憶を伝えています。

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