その他 蔵の記憶
公開:2026/03/11 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(319)人口増加と江南高校移転

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2019.12.2

 昭和20年の釧路市の人口は5万633人でしたが、同30年11万6907人、同35年14万7375人と戦後の釧路の人口は急激な増加が続き市街地の拡大と深刻な住宅難、宅地不足が続きます。

 釧路市は、住宅難解消に取り組み、昭和25年新川、駒場町の市営住宅建設開始、同26年寿町の市営住宅完成、同33年望洋団地(市営住宅)建設、同35年白樺団地着工と新興住宅地が続々と郊外に誕生して新しい街並みが生まれます。

江南高校と釧路労災病院

 写真は、昭和38年頃の周囲が畑の江南高校と釧路労災病院です。鉄北の住宅街が現在の柳町公園(当時は柳町運河)へ迫る勢いで拡がる新しい街並みです。江南高校は、大正8年5月17日茂尻矢(現城山町)に庁立釧路高等女学校として開校し、釧路の女子教育に貢献。戦後の新制高等学校の発足により釧路女子高等学校、昭和25年男女共学となり名称が釧路江南高等学校に変更されます。釧路江南高校は、同34年12月に古い街並の城山町から新興の光陽町へ移転開校します。

 釧路労災病院は、昭和32年釧路市が展開した労働省への陳情が効を奏し、中園町の原野に鉄筋コンクリート建ての病院建築を進め同35年1月開院します。産炭地であり漁船員の事故も後を絶たなかった。これをカバーする総合病院として整形外科に重点を置き発足します。(戦後史ノート)

 当時の住宅地は、市の中心部から望洋、白樺、新富士、愛国などの郊外にどんどん広がり新しい街並みが出現しますが、釧路江南の移転開校と釧路労災病院開院は新しい街並みの賑わいの中核施設として市民生活を支えます。

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