その他 蔵の記憶
公開:2026/03/09 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(244)釧路港復興

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2018.3.5

 昭和20年7月14、15日の空襲は、市の中心部を焼失するなど甚大な悲惨状況でした。貿易港として釧路の発展を支えた釧路港も港湾設備、船舶など喪失の被害を受けて終戦を迎えます。

 終戦後の釧路港は、太平洋戦争に突入する昭和16年以降、国による新たな修築がされないまま同21年第2期拓植計画が終了したため、釧路港は未完成の港であり、同22年から26年は、「釧路港の修築事業が行われない戦後空白期と呼ばれた」と釧路港建設史に記述されています。

 ところが、釧路港修築事業の空白期と呼ばれた、終戦による混乱が続く昭和21年1月27日の北海道新聞が、「総工費一千万円」「対華、対米航に隻接岸荷役」と戦後復興へ邁進する釧路港を報道しています。食糧危機、経済危機の時代に地元官民あげて実施された釧路港修築5カ年計画です。

 釧路港は、航路と泊地の浚渫、南と北の防波堤の嵩上工事が実施され、北埠頭の石炭ローダーが昭和24年3月に完成するなど計画が実行され、併せて南埠頭の石炭ローダーの再開により太平洋炭砿などの釧路炭田の石炭積出港として動き出し、日本の戦後の経済復興に釧路港が大きな役割を果たします。

釧路港を紹介する絵葉書の表紙

 写真は、釧路港の活況と昭和27年頃の釧路を紹介する絵葉書の表紙です。釧路港に停泊する貨物船、岸壁の荷役や、日本郵船の釧路─東京定期貨客船雲仙丸(3140㌧)の就航など「北海の要都伸びゆく釧路」は、釧路港の復興と同様に復興する釧路の街並みを紹介しています。

 釧路港は、道東の拠点都市釧路の生命線と呼ばれています。戦後の混乱期の釧路港修築5カ年計画は釧路港復興に努力した先人の活力の記憶です。

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