伝えたい「蔵」の記憶(102)釧路の街並み
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2014.10.20
釧路の市街地は、釧路川河口の左岸の船着場に近い、現在の佐野碑園付近が始まりです。明治2年釧路国釧路郡の名称が定められ、同5年釧路村、同8年米町(こめまち)が設けられました。
明治初期の釧路は、湊(みなと)と釧路川の水運により開拓の拠点となり、明治17・18年の鳥取士族移住、同18年の釧路集治監の開庁、安田善次郎による硫黄山経営などにより人口の急増が続き、商店、人家が急増して真砂町、洲崎町、浦見町、幣舞町が新設され、真砂町を中心とする中心市街地(現在の南大通)ができます。
北海道殖民状況報文(北海道庁殖民部拓殖課発行)釧路国は、明治30年頃の釧路の拓殖状況の報告書です。当時の釧路市街と釧路村の地理、運輸交通、人口、産業などの状況を伝える資料ですが、報文の釧路市街の様子は、真砂町は商家が軒を連ね最も殷娠(いんしん)を極め、米町は真砂町に次ぐ繁華街で漁業組会、病院、神社仏閣、妓楼がある。

浦見町は疎らな住宅地、幣舞町は支庁、警察の官庁街、洲崎町は魚戸多し。釧路村(現在の橋北、城山・材木・緑ケ岡・春採、別保遠矢、大楽毛など)の重要な部落はトンケシ及び西幣舞一部で、釧路川を隔てた釧路市街地域に漁民の家屋が密集しているが、他の地域は人家が疎らで、中戸川平太郎が明治18年西幣舞(現在の北大通)で耕作を始めたのが当地方の農業の嚆矢なりと記載されています。
北海道殖民状況報文は、小さな漁村集落であった釧路の街並みの成り立ちの記憶を伝え、その後拡大する釧路の街並みの原点の記憶を伝えています。




