伝えたい「蔵」の記憶(103)釧路之図
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2014.10.27
釧路の街並みの始まりは、幕末に会所が設置されていた佐野碑園付近ですが、昭和11年発行の釧路郷土史考に、「南大通8丁目は米屋時代の会所構内の一部であり7丁目の西端北側十番地には其の時代の木造倉庫本屋壱五坪下屋拾坪一棟を遺せり本市草創時の記念建築物として保護を加え保存すべき要あるべし…」とクスリ場所時代の記憶を伝える記述があります。
明治2年釧路国釧路郡の名称が定められ、同5年釧路村設置、同18年釧路外四郡役所が釧路に設置され、釧路の市街地は、クスリ場所時代の記憶を受け継ぐ米町と真砂町を中心市街地として街並みが広がります。漁業集落の釧路でしたが、明治維新後は、未開地の開拓と鉱産、森林資源開発、釧路川と港の交通運輸拠点の街として人口の急増が続き同33年7月に釧路に町制が施行されます。
明治33年刊行の「北海道植民状況報文・釧路国」に所載された釧路之図が当時の街並みの様子を伝えています。橋南地区は、米町、真砂町の中心市街地の周囲に街並みが続き、茂尻矢、春鳥へ通じる道路も見えます。
橋北地区は、釧路村と呼ばれ釧路川沿いに市街地が見られ、トンケシの字名が見え、「最も重要な部落はトンケシと西幣舞の一部」と植民状況報文に記述されています。釧路川から鳥取へ通じる真直な道路が見えますが、他の道路は未発達のようです。釧路川には、愛北橋が落橋したために渡船が見られます。
現在の釧路の街並みには、黎明期の「釧路之図」の街並みの記憶が伝えられています。





