その他 蔵の記憶
公開:2026/03/14 更新:2026/04/24

伝えたい「蔵」の記憶(414)昭和44年のサバ漁

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2022.5.2

 昭和24年から同27年のサバの漁獲高は市設魚揚場統計によると、最盛期の同25年で2万㌧であるが、魚粕生産高に換算すると5万㌧程度と見られる。

 釧路の夏は、サバの大豊漁で沸きに沸き、来る日も来る日もサバの陸揚げで、当時の錦町岸壁は捌き切れず、入舟岸壁の他、商船用岸壁の北埠頭まで動員された。サバの豊漁の様子を記述した漁業基地・釧路(釧路新書)によると、「サバ御殿」と呼ばれる料亭が誕生したと言い伝えられ、その後サバ漁は不振になるものの、昭和35年頃から再び水揚げが始まり、同40年は釧路港の水揚げ量の32.1%を占めます。

旋網操業の図

 写真は、釧路沖でサバを獲る漁法の旋網(まきあみ)操業の図で、一ケ統の船団規模は網船に、魚群探査船3隻、運搬船4、5隻で構成されています。サバ旋網船団は、南は長崎県、鳥取県、北は茨城県、宮城県と全国各地から釧路沖へ集まり釧路港を基地とします。昭和40年頃は23ケ統200隻が操業したと漁業基地・釧路に記述されています。

 昭和40年頃からサバの豊漁が続き同44年には11万2千㌧を水揚げし、釧路港の全水揚げ量の21.7%を記録し、釧路港の水揚げ日本一を支えます。漁期の間は、運搬中の車輌が道路にサバをこぼし、次の車がそれを踏みつけて行く。運搬車から滴れ落ちる油が道路を汚す光景が街中で多く見られ、市民の不評を買います。対策として、道路に散乱する「魚の荷こぼし」一掃の為の「シートが試作される」と釧路市史に記述されています。

 昭和44年のサバの豊漁は、街の活力と、臭いの記憶を伝えています。

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