その他 蔵の記憶
公開:2026/03/14 更新:2026/04/24

伝えたい「蔵」の記憶(394)浅川シネマ・ビル開館

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2021.10.25

 テレビ普及により映画観客動員が年々減少し斜陽が進む昭和42年の釧路の興行界は、釧路東宝とセントラル劇場が閉館し、パール劇場がバッテングセンターに変わる、など厳しい様相の中で、挑戦するように「浅川シネマ・ビル本日開館」(釧路劇場、ミラノ座)の広告が同10月6日の釧路新聞に掲載され、全道の興行界から注目を集めました。

浅川シネマ・ビル

 写真は、末広町3丁目(現わっと)の浅川シネマ・ビルです。開館当日は、大映スター田宮二郎、松竹スター香山美子、竹脇無我のトップスターが舞台あいさつ。ファンの要望に応え「豪華設備の浅川シネマ・ビル本日開館」と宣伝しています。浅川シネマ・ビルの開館記念は、釧路劇場が「ドリフターズの喜劇・全員集合」、ミラノ座が「神が造った最大のドラマ・天地創造」と、評判の邦画、洋画を上映し、二つの封切館を有するデラックスさが話題を呼びます。

 浅川シネマ・ビルを経営する浅川興行は、昭和6年浅川正一さんが敷島館(後に南映)で、映画館を始めます。その後、恵比寿、釧路劇場を経営しますが、戦災で焼失し敷島館のみが残ります。戦後の焼け跡に浅川正敏さんが釧路劇場の再建を皮切りにオデオン座などの劇場を再開して戦後の復興混乱期の釧路市民に笑顔と感動を与えます。戦前戦後の釧路の興行界の中核として新しい文化に夢を広げる釧路の繁華街末広町の賑いを支えます。

 昭和42年10月6日の浅川シネマ・ビル開館は、カラーテレビの普及とレジャーの多様化が進み、映画の斜陽化が極に達したにも関わらず、それを承知でビルを新築し、大衆の芸術、文化、娯楽の近代化に挑戦した活力の記憶を伝えます。

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