その他 蔵の記憶
公開:2026/03/13 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(362)戦後の丸ト北村

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2021.1.11

 北大通り商店街は、2丁目から5丁目西側の商店街が空襲で被災して焼け野原となり、昭和20年8月15日の終戦を迎え混乱期の復興が始まります。

 北村藤兵衛さんは、昭和22年3月に焼跡に急造された平和市場の一コマに丸トの看板を挙げ、同年10月に旧店舗を再開します。当時の北大通り商店街は、焼け跡の北大通りや稲荷小路付近は青空市場と呼ばれたヤミ市が出現し公然の商いとなり、丸三鶴屋では物々交換所が開設されるなど市民生活は衣食住を求める混乱期でした。

 昭和24年の物資統制令の廃止と同25年の織物消費税廃止により衣料品の生産が徐々に回復し、丸ト北村呉服店は、「店らしい体裁が出来て、女子店員一名を採用するところまで伸びた」と商況の変化を判断して、同25年4月に商号を株式会社丸ト北村呉服洋品店に変更し法人組織に切り替え近代的な経営を目指します。商号の変更と個人から法人への組織切替は、北村藤兵衛さんの近代経営へ取り組む姿勢を伝えています。

 昭和20年代後半の釧路は、サバの豊漁と石炭、紙パルプの活況により戦後復興が加速して人口の急増が続き、北大通り商店街は、商品の流通の緩和と旺盛な購買意欲により大いににぎわいます。

「桁はずれの市」の広告

 写真は、大量の商品と格安さを謳う丸ト北村の「桁はずれの市」の広告を掲載した昭和29年3月27日の北海道新聞の広告欄です。丸ト北村呉服洋品店は、商品の流通緩和に対応して店舗の拡大と薄利多売を実践し、同32年に売上9千8百万円(従業員数40人)を記録して復興から躍進へ挑戦します。

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