その他 蔵の記憶
公開:2026/03/09 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(245)朝日国民学校復興

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2018.3.19

 昭和21年1月1日の北海道新聞は、「新生日本建設」「食糧増産」「明ける平和」などを謳う企業広告が多く見られ、終戦直後の復興への決意を伝えています。

空襲で焼失した旭国民学校の仮校舎の現況を伝える記事

 写真は、昭和20年7月14日の空襲で焼失した旭国民学校の仮校舎の現況を伝える同21年4月19日の北海道新聞「戦災校を速やかに復興せよ」の記事です。 

 旭国民学校は、橋北市街地拡大が続く大正5年11月15日開校します。北大通、末広町の中心市街地の発展により市内で児童数が一番多い学校でした。空襲による校舎焼失を体験した児童の分散授業の様子を統合開校90年記念誌が記録しています。

 昭和20年8月4日から校下6地区に分かれた寺子屋式授業を開始。4年以下は日進校、5、6年は女子校で授業開始。10月1日から山本修吾氏より寄付せられた旧・山本病院の建物(北大通5丁目8番地)でも児童を収容し授業をする、と校舎を焼失した混乱の中での授業再開の様子を伝えています。

 旧山本病院の仮校舎は、改造して1、2年生児童を収容しました。しかし新聞記事は、押入れもある教室、机は軍隊の食台、6人掛け板の腰掛、戸外運動場が無いので狭い教室が遊び場、少ない便所など劣悪な設備の中で、不潔で危険な仮校舎の実情を訴え、「バラックでもいい」と早期建築を要請する保護者の思いを報道しています。

 仮校舎落成(8学級)は、昭和22年6月21日。昭和23年3月に本校舎の第1期工事が着工します。

 旭国民学校の復興の記事は、空襲、戦災、校舎焼失、終戦と厳しい状況に挑戦する釧路市民の悲壮な思いの記憶です。

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