伝えたい「蔵」の記憶(206)兵士へ送る「慰問袋」
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2017.4.3
太平洋戦争が始まり、市民生活も急速に戦時体制強化の影響を受けます。昭和17年の釧路新聞を見ますと、「いよいよ女給さん出動、勤報女子第2陣に日水工場へ」─夜の仕事の女給さんが、お昼に水産加工場で働く勤労奉仕をする様子と、勤労奉仕が終了した時には、「聖汗をお土産に帰る」と昭和17年5月15日の釧路新聞が報道しています。
防空精神強化運動では、「常在戦場の覚悟を持ち我が家を我が手で護れ」「久し振りの野菜僅ながら今日明日配給」など戦意高揚と銃後の市民生活を報道しています。

写真は、昭和17年5月17日釧路新聞に掲載された、「戦線の勇士へ感謝の慰問袋を送りましょう」、「兵隊さんの喜ぶ慰問品売出し」、「戦時下の贈答は国債で」と時局に対応した丸三鶴屋の広告です。当時は、皇軍の戦果に銃後の熱意を伝える手段の一つは「慰問袋」でした。慰問袋は、戦地の兵士を励ます為に内地の家族や知人が送る慰問品を詰めた袋で、日露戦争中に始まったと言われていますが、太平洋戦争時には、隣組、学校、婦人会に割り当てられています。
日本軍がシンガポールを占領した後の昭和17年3月20日の釧路新聞に、「大口注文殺到、慰問袋と取組む女子店員」、「血と硝煙の第一線へ」と銃後の市民が真心込めて贈る慰問袋の調整を一手に引き受ける百貨店の女店員の多忙な様子を伝えています。
慰問品売出し広告は、経済統制により転廃業を余儀なくされた北大通り商店街の苦悩と、戦時下の百貨店丸三鶴屋の役割を伝え、混乱する銃後の市民生活の記憶を伝えています。




