その他 蔵の記憶
公開:2026/03/05 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(137)人力車

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2015.8.24

 大正5年12月15日の釧路新聞に、歳末の町の様子を伝える「歳晩の町」で景気の良い人力車屋、と題した記事。営業主11名、車台46台、挽子47名、挽子の所得は売上の三割、など当時の人力車の事情を伝えています。

 人力車は明治元年、和泉要助らによって発明され、明治、大正時代徒歩より高速な移動手段として用いられ、人を輸送する車で略して人力車と呼び挽人を車夫、俥夫、車力と呼んでいます。馬よりも人間の労働コストが安かったので人気の交通手段になったとも云われ、中国、東南アジヤへ盛んに輸出されました。

活躍した人力車

 釧路の人力車の始まりは、明治34年7月4日の北東日報に米町71番地永井喜作が人力車の開業案内を掲載しています。同37年の釧路の道路交通機関は、荷馬車63、人力車3、荷車125、馬橇128と記録され旅客輸送は未発達でした。

 大正11年を見ますと、乗用馬車1、荷馬車264、人力車69、自転車748、自動車3、荷車480、馬橇265で、交通手段も新時代を迎え旅客輸送に自動車が見られ、人力車、自転車が増加しています。

 大正11年7月17日から19日に、摂政宮殿下(昭和天皇)行啓の新聞報道で、御召人力車を先頭に80台の人力車を連ね釧路停車場を出発し西幣舞大通、幣舞橋を通り公会堂へ到着したと報道されています。大火と大洪水の災害を乗り越えた西幣舞の商店街、拡幅された大通を延々と続く人力車の列と沿道を埋める人々の歓迎の様子を見ると人力車の列が奉迎を盛り立てています。

 自動車が登場しますが、大正時代に乗物の主役は人力車です。

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