伝えたい「蔵」の記憶(111)川向こうの漁師街
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2015.1.12
明治17年の釧路市街地の戸数は、米町・真砂町に連亘(れんこう)する戸数150戸のほかオダイト40戸、幣舞30戸、浦見4戸、茂尻矢1戸、橋北にほとんど戸数無く北大通付近3戸、頓化3戸である。職業別の資料は無いが、オダイトの40戸は、やがて開始される釧路漁業の担い手が含まれていたと想像できる、と釧路市史に記載されています。
釧路の漁業は橋南のオダイトを中心として発展をしますが、八戸、越後漁民による漁場の開拓や、漁業技術の導入により明治20年以降著しく漁獲量が増大し、頓化、ベットマイ、西幣舞の橋北地区への定住者も多くなります。
写真は、40年代初頃と思われる初代幣舞橋の北橋詰の街並みです。

初代幣舞橋は、明治33年に架橋し同42年まで釧路の躍進を支えた橋です。当時の人口動向を見ると、同33年の人口は1万309人となり町制が施行され、同42年には2万1069人と人口が急増し市街地が広がります。
漁業の寒村でした釧路川右岸の西幣舞の街並は、鰊漁の豊漁により川岸に軒を連ねる漁業施設、人家、漁船の繋(けい)留など漁業の街並みが広がります。明治34年には鉄道が開通し鉄道の街並みが誕生して交通運輸の拠点になります。
鉄道施設の建設により、漁業の環境が変化したため漁業者は、幣舞橋上流の現在の末広町、栄町、川上町へ移動をして新しい漁師街が出来ます。新しい漁師街を「川向かいの漁師街」と、伝統ある漁業の街オダイト地区の人達が呼ぶようになったことを釧路市史が伝えています。
川向かいの漁師街の呼称は、釧路発展を支えた先人の活力の記憶であり、街並みの記憶を伝える呼称です。




