その他 蔵の記憶
公開:2026/03/04 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(109)長右衛門長屋学校

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2014.12.22

 明治17年の橋北の街並みは、北大通付近3戸、頓化(とんけし)3戸と記録されていますが、同20年頃から頓化、ベットマイの沖合が小鰊の漁場となり、頓化には南部八戸方面から出稼者が定住するようになり、同30年頃には漁民の家屋が密集し、橋北地区の最も重要な部落と、北海道殖民状況報文が報告しています。

 人口の増加に伴い子供の教育の問題が発生しますが、当時は橋南地区の日進小学校だけで、頓化からは通学が困難の為、明治31年1月13日に現在の浪花町(釧路村字頓化)の海岸に、山本長右衛門の納屋を借りて日進小学校の分教場(寿小学校)が開校します、場所は頓化の海岸で、海まで家はほどんと無く砂原一面の地でした。長屋を校舎としていたので、「長右衛門長屋学校」と呼ばれていましたが、この年の12月3日現在地に新築移転します。(寿小学校80年誌)

 釧路の学校の始りは、米町会所付近に丸太柱に丸太梁の仮教場が設けられ、丸太学校と呼ばれ、授業中に付近に放牧している馬が教室の窓から長い顔を覗かせびっくりしたものだと云う話も残っている、この丸太学校が「日進学校」と命名されたのが明治12年9月16日です。

 頓化の浜に開校した寿小学校記念誌には、鰊が豊漁で、浜は鰊でいっぱいになり、冷凍設備が無いために大量の鰊を釜でゆで、むしろで干して俵づめをする作業など頓化の先人達が、漁業、水産加工に懸命に取り組む様子を伝えています。

寿小学校の90年記念誌掲載の長右衛門長屋学校想像図

 鰊の豊漁で賑わう頓化海岸の長右衛門長屋学校は、海の開拓者として移住した先人の記憶を伝える学校です。

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