伝えたい「蔵」の記憶(107)頓化の浜
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2014.12.1
釧路の漁業は、釧路川の左岸のオダイトウを拠点として発展をしますが、明治20年代から始まった鰊漁により漁業の様子が変わり、漁業集落が釧路川右岸の橋北地区の頓化(トンケシ)、西幣舞へ広がります。
頓化は、昭和7年の字地番改正により浪花町、南浜町、仲浜町、寿町の町名に変わり消えた町名ですが、釧路港が整備されるまでは浅瀬でホッキ貝が取れ、頓化の浜と釧路市民に親しまれた町名です。

明治末期頃の釧路港漁村集落想定図(釧路市史)を見ますと、「セズリの深み」「目抜・鱈延縄」「鰊施網」などの漁場の様子と釧路川河口右岸に頓化、ベットマイ(別途前)の海岸沿には、鰊・鮭建網が連なるように並んでいます。海岸と現在の国道38号の中間地帯には、人家、番屋が連なり造船所も見えます、頓化・別途前の漁業の活況を伝える想定図です。
明治20年から30年代の頓化・別途前の沖合が小鰊の漁場となり、南部、八戸方面から漁期間中に出稼者が来ていますが、この出稼者の中から定住したのが頓化の街の始りです。
同30年代から小鰊の来遊が増加し釧路の漁業は活況を呈しますが、鰊漁の新しい漁法が八戸からの移住漁民により導入されます。
同40年、鰊施網漁業が盛んになり、八戸地方の漁業者の出漁が行われる、鰊漁業開始以来、「最高の水揚(五万石)を記録する」と釧路市史年表に記載されています。
頓化の浜には、八戸から来た海の開拓者の奮闘、番屋と魚粕乾場が砂丘を賑わした光景の記憶が伝えられています。




