その他 蔵の記憶
公開:2026/03/04 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(106)頓化

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2014.11.24

 釧路川右岸の河口から大楽毛への海岸は、砂丘海岸で昭和20年代中頃でも、魚かす、鱈のすきみなどの乾燥を行う砂浜が続き、街に魚の匂いがする漁師街で、アイヌ語地名の「頓化(とんけし)」と呼んでいました。

トンケシ海岸

 明治初期の釧路の産業は、漁業中心で、橋南地区のオダイト、と橋北地区のトンケシが漁業の中心拠点でした。トンケシでの漁業の記録は、新釧路市史年表の明治12年10月、御得稲荷神社が須貝利吉経営の漁場魚場私祭神祠として、トンケシの地に奉祀される、と記載され明治初期には漁業集落が出来ていたようです。北海道殖民状況報文では、釧路川以西の様子の中で、最も重要な部落としてトンケシと西幣舞の一部を挙げ、明治30年代初期も釧路川右岸のトンケシの賑わいを伝えています。

 釧路では明治40年に、鰊漁業の開始以来最高の水揚(5万石)を記録しますが、鰊漁の豊漁を支えたのがトンケシへ八戸方面からの移住してきた人達です。トンケシの海岸線一体の砂丘には、鰊番屋、魚粕製造所・乾場が並び、鰊の作業の稼ぎ人も定住するようになりトンケシへの定住者が増加して漁村集落となります。

 鰊漁の最盛期明治40年代の様子を釧路市史が伝えています。当時の釧路の人口は約2万人に過ぎず、鰊漁期になると町じゅうがこの鰊に取り組み、街の中の空地はいたるところ鰊の粕乾場となり、人手も老若男女を動員したと云われて、街中が鰊一色のようです。

 釧路川右岸河口部のトンケシの砂丘に八戸衆によって開発された鰊漁は、其の後の水産都市釧路の誕生を支えています。

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