伝えたい「蔵」の記憶(84)初代幣舞橋
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2014.5.26
最初に釧路川に架けられた愛北橋は、冬の結氷、春の増水などの厳しい自然環境により明治31年に落橋し、その後は渡船交通でした。明治33年12月待望の官設の長さ203.4㍍、幅4.2㍍の長い橋が完成します、地域の名前をとって「幣舞橋」と命名され、9年間釧路を見守っています。
明治の黎明期の釧路は、真砂町が中心市街地ですが、幣舞橋が架けられたころの西幣舞も、徐々に市街化しています。初代幣舞橋の時代は、釧路の躍進の基礎を築いた時代です。
明治33年に町制が施行され、官設鉄道釧路線の建設資材、機関車を積載した外国船が初めて釧路港に入港し、明治34年官設鉄道が釧路―白糠間が開通します。釧路停車場は西幣舞(現在の交流プラザさいわい付近)です。

物流が駄馬、荷馬車、船が主役の時代に、蒸気機関車の登場は、近代文明の到来です。鉄道が開通して町勢は橋北地区に伸長し、西幣舞はにわかに戸数の増加を示すに至る、と釧路郷土史考が当時の様子を伝えています。初代幣舞橋時代の釧路は、鉄道沿線の開拓と枕木、マッチ軸木などと前田製紙の操業と木材産業の活況、記録なニシンの豊漁により活気あふれる街でした。
急増する人口に対応して、釧路川左岸の埋め立て、橋北の頓化に釧路第二尋常高等小学校を設けるなど諸策を実施しています。初代幣舞橋と西幣舞の様子を見ますと、釧路川右岸に沿って人家が密集し、湿原だった北大通5丁目付近まで人家が見えます。
橋は、人々の生活の範囲を広げ豊かにします。そのために先人は自然と闘い橋を守りました。



