伝えたい「蔵」の記憶(83)明治23年の愛北橋
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2014.5.19
明治初期の釧路の街は、釧路川左岸の丘陵に沿って人家が並んでいましたが、明治18、19年の鳥取士族、釧路川上流の開拓者、東北地方の漁民等の移住により人口が急増し、釧路川右岸の西幣舞(現橋北地区)へ人家が広がりましたが、釧路川の交通手段は渡船でした。
明治19年に宮本郡長は、釧路川の架橋を上申しますが、架橋はなりませんでした。しかし、橋は明治22年9月22日に初めてできました。宮本郡長の勧めにより、名古屋に本社がある愛北物産合資会社が私費で架けました。橋の名前は、架設者にちなみ「愛北橋」と命名され、長さ216㍍、幅3.6㍍で、当時の北海道で一番長い橋でした。

明治23年発行の北海立志図録に掲載された愛北橋です。図を見ますと、愛北橋の上流、現在の城山町付近の釧路川に煙を揚げた船が見えます、春鳥炭鉱の石炭を硫黄の精錬工場のある標茶へ運ぶ船です。集治監と結ばれた電信線が見えます。愛北橋が架橋されたころの釧路は、それまでの漁業中心の産業に、硫黄、石炭等の近代的な産業が芽生え、明治23年には釧路港が特別輸出港に指定されて、港湾の機能充実が計画されるなど、未開の新天地釧路で近代的な経済の基礎を築いています。
明治初期の釧路は、原始の姿をとどめる漁村でしたが、全国各地からの移住者は、夢の実現に挑戦し、行政の中心の宮本郡長も、未来の釧路に夢を託す諸策を実践しています。愛北橋の架橋は、官ができないなら民で実現させる、先人の思いを伝える橋です。



