伝えたい「蔵」の記憶(82)渡船
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2014.5.12
釧路川は釧路の街の中心を流れ、明治の開拓時代より釧路川に架けられた橋が、釧路の交通の要として市民生活を支えています。しかし、橋のない明治初期の交通手段は渡船でした。
釧路川での渡船便の年代はつまびらかにできないが、いつのころから釧路川左岸(橋南側)の船着場に渡守小屋が設けられ、右岸に盤木をつるして、それをたたいて渡船を呼ぶ合図にしていた。
渡船は、人渡船と馬渡船の2隻を備え「開拓使出張所記録」によると、明治7年の料金は旅人1人1銭、馬1頭2銭ですが、明治14年には、人3銭、馬6銭と3倍に値上げしています。(釧路市史)明治20年ごろ、そば1杯の値段が1銭の記録があり、開拓者には渡船料の負担は重い感じがします。利用状況は往復人員は1日平均300人余と報告されています。(明治19年の郡長諮問会答議)
釧路市街は、明治17、18年の鳥取県士族の移住、明治18年の釧路集治監の開庁、安田によるアトサヌプリ硫黄山、春鳥炭山開発などにより、明治20年の人口は2120人と人口が急増し、市街地が、西幣舞、頓化(現在の橋北)へ拡大し、人の交流、物資の輸送に渡船は、欠くことのできないものでした。鳥取士族の坂本友規日記に、釧路へ行く、渡し銭、の記録があります。鳥取への移住者も渡船を使い、釧路市街と往来しています。渡船は開拓者の足でもありました。
釧路川の渡船は、原始の姿をとどめ、川幅が現在の2倍以上ある釧路川交通を支え、架橋を願望する黎明期の移住者の活力を支えています。



