その他 蔵の記憶
公開:2026/03/03 更新:2026/04/07

伝えたい「蔵」の記憶(74)原田幸吉

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2014.3.10

 明治初期の釧路の街は、釧路川の流れが街を大きく変貌させています。当時の釧路川上流ではアトサヌプリ硫黄の採掘、標茶集治監の開庁、硫黄の精錬に使う春鳥の石炭と近代産業が芽生え、それまで漁業が中心の釧路でしたが、奥地開拓の拠点の街として釧路川左岸沿いに真砂町、洲崎町と市街地を広げています。明治23年に函館で発行された「北海立志図録」は、当時の釧路の様子を銅版画で伝えています。

海産物などを商い、釧路村総代人を務めた有力者の原田幸吉の店構え

 絵図は、原田幸吉、釧路郡真砂町15番地、生国佐賀県下肥前國佐賀市長瀬町、屋号は入幸、絵図を見ますと、釧路川に面して門を構え、庭がある2階建ての住居、作業の倉庫、土蔵があります。場所は南大通の記木夢公園付近ですが、釧路川が近くに見える川岸の様子です。商売は海産物、米穀、漁具、雑貨です。原田幸吉さんは佐賀県からの移住者で、釧路村総代人を務めた有力者、「挽歌」の著者原田康子の曽祖父で、小説「海霧」の中に登場しています。

 掲載された図録を見ますと、生国は東北地方の青森、新潟、山形を中心に愛知、滋賀、岡山、鳥取などと全国各地からの移住者です。業種は、回漕店、艀営業などの運輸業、漁業海産物問屋、食料品、呉服、洋服、金物、和洋料理、旅人宿が軒を並べ、街並みに維新の文化を感じさせます。

 釧路川上流の開拓に挑戦する開拓者の基地として、上流からの硫黄、木材などの受け入れ基地としてにぎわう明治23年ごろの釧路川左岸の街並みは、夢の実現にたくましく挑戦する開拓者の熱気が感じられます。

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