その他 蔵の記憶
公開:2026/03/03 更新:2026/04/07

伝えたい「蔵」の記憶(73)釧路川河口

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2014.3.3

 釧路の黎明期には釧路川上流へ多くの開拓者が移住し、生活物資の輸送、硫黄、木材の搬出など、奥地との交流に釧路川は大きな役割を果たしています。開拓拠点の釧路川河口は、釧路川左岸に沿って自然発生的な真砂町、洲崎町がようやく誕生していますが、原始の姿を留める釧路川の川幅は現在の2倍くらいの200㍍から300㍍もありました。

 明治30年ごろの釧路川河口の地図を見ると、釧路川左岸に河口を塞ぐような三角形が見えます、オダイトウと呼ばれた砂州です。オダイトウの砂州には、安田事務所、倉庫、軌道などの施設があり、整備されていない釧路港の汽船に硫黄を積み込むための硫黄の積替え基地の役割を果たしています。

明治30年ごろの釧路川河口図。釧路川左岸に河口を塞ぐような砂州(オダイトウ)がある

 安田炭鉱の石炭を春採湖から釧路川左岸へ運ぶ安田の馬車が敷設されています。釧路川は、左岸の川沿いに真砂町、洲崎町の中心市街地を誕生させています。道路も真砂町、幣舞町を中心に拓かれています。

 左岸の中心市街地と右岸を結ぶ橋と直線の道路が延びています、当時西幣舞と呼ばれ人家もまばらな街です。橋は初代幣舞橋で、道路は湿原を埋め立て造られた、現在の北大通の始りで、鳥取へ移住した人たちが利用した道路です。また、右岸には大きく蛇行して釧路川に流入している阿寒川が見えます。後に河川の切替工事により流路を変えて姿を消しますが、阿寒太の地名を残しています。

 釧路川の河口は、硫黄の輸出、木材の流送、釧路川治水工事、鉄道の開通、釧路港修築など釧路発展の記録を記憶しています。

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