伝えたい「蔵」の記憶(72)明治23年の大町
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2014.2.24
釧路の黎明期の明治23年ごろの現在の大町の様子を伝える、硫黄山安田事務所釧路出張店の釧路川口硫黄運搬図です。釧路川口近くの左岸のオダイトと呼ばれた砂州近くに、安田の事業の拠点となる事務所、倉庫、トロッコ輸送の軌道、船への積出、陸揚場が描かれています。

釧路は漁業集落でしたが、明治の開拓時代になり、恵まれた森林、硫黄、石炭資源の開発と河川運輸の釧路川、釧路港と産業立地に恵まれて開拓拠点として近代産業が芽生えます。安田事務所の絵図は釧路の基幹産業の未来を語っています。
安田財閥の創始者安田善次郎は明治20年に川湯のアトサヌプリ硫黄山を譲り受け近代的な経営を実施します。硫黄の精錬に使う石炭確保のために春鳥炭山(後の太平洋炭砿)の開発に着手、標茶精錬所設備の近代化、硫黄山と標茶間に鉱石輸送の釧路鉄道の開業、石炭と硫黄輸送のために釧路川の航路を開き蒸気船を就航、春鳥炭山の石炭輸送では、春鳥湖では舟、沼尻と港の間に馬車鉄道を敷設するなど、それまでの原始的経営を改革し原始林の中に近代的な経営を実践しました。
明治24年には釧路港は特別輸出港に指定され、外国への窓口が開かれました。安田が開業した明治20年の釧路は、人口が2110人の小さな漁村でしたが、釧路川の水運が画期的な近代産業を誕生させ、開拓者には未開の地を切り開く夢と希望を与えました。
釧路川の水運に支えられた硫黄の採掘は明治29年に終了しますが、安田の硫黄の採掘は、その後の釧路の経済へ多くの記憶を伝えています。



