伝えたい「蔵」の記憶(70)
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2014.2.10
釧路湿原の東側を蛇行する釧路川の緩やかな流れには、先人の釧路川治水への挑戦の記憶が伝えられています。
釧路川の大洪水は、明治31年と大正9年に記録されていますが、大正9年の大洪水を契機にした釧路川の治水計画の実施が発展する釧路を誕生させる要因となっています。大正9年の釧路川洪水は同年の8月8日出水、同14日減水の1週間を指します(釧路叢書釧路川)。この時の雨量は釧路測候所開設以来の記録で、平年の3倍を記録し、「覆盆の豪雨河川に溢る」と豪雨の様子を釧路新聞が報道しています。
8月11日の釧路新聞の号外では、「橋北の大部分濁流に侵され家屋の流失、鉄橋、木橋危険、其他悲報頻々…」「未曾有の釧路川氾濫大洪水」「釧路川鉄橋危険」と洪水の凄まじさを報道しています。洪水は人心ばかりでなく釧路経済の中核の木材が大量に流失し、経済界にも打撃を与える未曽有の災害でした。

被害は、西幣舞(現橋北)、茂尻矢(現大川、城山、材木)で浸水家屋1774戸、避難所収容数6434人、その他鉄道被害、通信不通などの混乱の様子が伝えられています。当時の釧路川大洪水の報道では、甚大な被害と釧路川の治水計画について、8月20日の釧路新聞に「釧路川治水如何」と洪水の分析と、対応を議論しています。
洪水の直後に、次代への前進を考える先人の決断と実行力は、新釧路川の開削、岩保木水門の建設とスケールの大きい釧路川治水計画を推進させ、その後洪水の記録はなく、躍進都市釧路を誕生させています。



