その他 蔵の記憶
公開:2026/03/03 更新:2026/04/07

伝えたい「蔵」の記憶(65)佐野孫右衛門

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2014.1.6

 明治2年、蝦夷が北海道に改称され、明治4年札幌に開拓使庁が設置、明治7年屯田兵制度制定と北海道開拓の黎明期に、釧路川上流の原始林に近代産業が芽生えていました。釧路発展の基礎を築いた佐野孫右衛門が、屈斜路村アトサヌプリ(現硫黄山)の硫黄鉱の採掘を明治9年に始めました。

 江戸時代から釧路の産業は昆布を中心とした海産物が中心でしたが、人跡未踏の原始林に挑戦して、鉱産物の開発はその後の釧路発展に貢献しています。当時の硫黄は、アメリカ向けの輸出品の花形でした。アトサヌプリから駄馬に硫黄を積み、踏み分け道を熊牛(現標茶)まで陸送して、川舟に積み替えて釧路川を利用して釧路に集荷され、本州へ移出されています。

 佐野の硫黄事業の様子を見ますと、作業員は50人ぐらいで、採掘道具はツルハシや唐鍬で人夫が掘り、駄馬で原鉱を運び、精錬は日本式精錬(だら煮精錬)と云う伝統的な方法で、鉄製の鍋釜をレンガで築いた竈に据え付けて、これに原鉱を入れて薪火で煮て溶かし固める原始的な製法でしたが、明治17年10月北海道物産共進会で1等賞を受けています。(釧路の産業史)

4代目佐野孫右衛門

 佐野孫右衛門は、増産のために運搬道の自費開削、輸送量確保に駄馬200頭、設備の整備、人員増などを実施しますが、明治18年佐野の硫黄事業は山田慎へ、のちに安田善次郎へ譲渡されます。安田善次郎が経営した近代的な硫黄事業は、釧路の産業の礎です。

 明治初期の釧路の近代産業の芽生えを、物流の主役として釧路川が記憶しています。

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