伝えたい「蔵」の記憶(64)釧路集治監
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2013.12.23
釧路川の中流の川べりの標茶は、標津、斜里と釧路川河口の釧路を結ぶ内陸交通と河川交通の要でした。明治初期の北海道は、北方警備と拓殖計画促進のために、明治14年樺戸集治監、明治15年空知集治監が開庁し、明治18年釧路集治監が未開の原始林を拓き標茶に開庁し、釧路川内陸の開発拠点となりました。
写真は明治18年に、現在の標茶高校の場所に建築された近代的な洋風の集治監の本館です。現在は塘路湖畔で郷土館として使用されています。明治23年当時の集治監の収監は1409人、川上郡の人口は4403人で釧路の人口が4231人ですから、原始林の中に突然街が誕生しました。
資料によると集治監では、基本的に自給自足を基本とし、監内で囚人による大規模な開墾と測候所の開設により、先進的な農業も行われています。劣悪な労働条件で囚人を使役して施工された工事は、釧路川浚渫(しゅんせつ)、厚岸の屯田兵舎建築、標茶釧路間道路、標茶厚岸間道路等東北海道の主要幹線道路は囚人の血と汗によって開削され、現在でも仮監(仮の宿舎)と呼ばれる場所が残されています。

明治20年、安田善之助が川湯の硫黄山を譲り受け、標茶を中心として近代的設備で経営をしますが、過酷な労働条件で使役された集治監の囚人達の悲惨な記録も残されています。釧路集治監は明治36年閉庁されますが、釧路川の水運と集治監の開庁は、未開の原始林に覆われた黎明期の釧路川流域の開拓に貢献をしています。
現在はのどかな田園風景の標茶ですが、釧路川が記憶している先人のたくましい開拓の記憶も感じます。



