伝えたい「蔵」の記憶(63)曳き舟
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2013.12.16
釧路川は河口の街釧路と塘路、標茶を経て斜里、標津へ通じる川の路として、流域の人々の生活に欠くことのできない川でした。
幕末に北海道を踏破した松浦武四郎の「久摺日誌」には、釧路から大楽毛、阿寒、美幌を経て斜里、裏摩周、弟子屈、標茶から釧路川を下り釧路へ帰ります。陸路の未整備な時代、この行程では網走川、釧路川を利用した当時の川の様子を伝えています。
明治初期には、釧路を起点として釧路川上流の内陸開拓が始まります。明治18年に開拓の拠点として標茶に釧路集治監が開庁し、明治20年に硫黄山安田事務所が開設され、同時に標茶と硫黄山の間に釧路鉄道が敷設され、釧路川の航路に蒸気船が就航して、原始林に覆われた釧路川上流の標茶に近代文明が襲来しました。標茶が奥地開拓の拠点となった要因は、釧路川の水運です。

写真は明治初期の釧路川の航行を伝える曳き舟の様子です。人力により釧路川を曳き舟することは容易な作業でなく、途中に乗り換え、積み替えの基地を設け、幾つかの地域に分けられて運航します。
曳き舟は、帆柱の上から綱を数本引き3、4人がこれを肩にかけて岸に沿って進むという重労働で、釧路の古老談の中で体験をした細川杢蔵も一度で辞めたと話しています。
曳き舟は釧路から標茶まで約4日から7日を要したので、途中の河畔に粗末な小屋を設け、炊事は船上の七輪で行ったと記載されています。(釧路叢書釧路川)開拓初期の曳き舟の記憶は、釧路川流域の塘路、五十石に伝えられています。



