その他 蔵の記憶
公開:2026/03/03 更新:2026/04/07

伝えたい「蔵」の記憶(61)クスリ図

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2013.11.25

 幣舞橋から見る釧路川は、整備された河畔を散策する市民、観光客、係留された漁船と、のどかな光景ですが、釧路川は明治以降の開拓により急速に様子を変えています。開拓以前の釧路川の記憶をたどります。

 明治以前の釧路川と当時クスリ場所の中心地と呼ばれた釧路の街並みの様子を伝える「クスリ図」寛政11年(1798年)を見ますと、釧路川河口の上流にはモシリヤ(現城山町)の語源の中島と河口右にはオダイトオと呼ばれた砂州(現大町)、当時会所と呼ばれた現在の佐野碑園付近に人家が見えます。

明治以前の様子を伝える「クスリ図」

 クスリ泊には海路で松前へ海産物を運ぶ交易船が錨を下ろしています。河口には、陸路を旅する人が渡し舟でトンケシ(現浪花町)とオダイトウ(現大町)の間を往来している様子が描かれています。

 寛政11年は幕府が北方警備のために東蝦夷を直轄にし、当時の釧路について「この頃調査に来る者が多く、渋江長伯、谷元且らの記録が残される」と、釧路市史年表に記載されています。享和元年(1801年)宗谷から斜里に至り、舟で釧路川を下り釧路を通り太平洋岸を帰途に就いた一行の磯谷則吉の蝦夷道中記の記録に、クスリ場所全体の戸数は200戸と思はれる(釧路市史)と記載され、会所を中心とした大きな集落です。

 釧路川の上流は未開の原始林に覆われ、陸上交通路が整備されていないために、斜里、標津との交流には釧路川が交通路としての役割を果たしています。当時東蝦夷と呼ばれた釧路川河口の静かな部落の釧路にも、幕府の動向を感じらせる時代の絵図です。

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