伝えたい「蔵」の記憶(53)嵯峨久銅像
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2013.9.23
釧路を一望する釧路川河口の丘陵の幣舞町は、郡役所の開設以来釧路の行政の中心機能を果たす官庁街でした。官庁街の一角に、釧路の水産の父と呼ばれた嵯峨久が海を見詰めている銅像が、昭和5年11月に建立されました。釧路郷土史考に、「漁業家相謀、水産功労者嵯峨久の銅像を建立せり」と記載されています。
嵯峨久は明治40年に漁船がまだ動力化していない時代に、発動機船を建造して沖合漁業に着手し、大正9年には発動機船組合を設立、大正13年には共同市場を開設するなど釧路の漁業の新時代を築きました。釧路の漁業は前浜から沖合、漁場の開拓、発動機船の導入と常に創意工夫する先人の忍耐と努力により発展しました。

釧路発展の様子を見ますと、明治2年に釧路國釧路郡の名称が定められ、当時戸数10、人口50人と記録されています。明治33年町制施行戸数2129、人口1万390人、大正11年市制施行され戸数8494、人口4万2673人が記録され、急速な発展を続けていますが、発展の要因の一つは漁業です。
昭和初期の釧路の漁業は、昭和4年の鮪の記録的な豊漁、嵯峨漁港の埋め立て認可、南千島での底引き漁業の開始と、次代に向けての努力を続けています。道東の拠点都市釧路の都市機能の充実と、昭和初期の先人の努力が、戦後の水揚げ日本一を誇った釧路の漁業を誕生させています。その後の漁業環境の変化により、釧路の漁業も新しい時代を迎えていますが、幣舞の嵯峨久の銅像は釧路の街の記憶を見続けています。



