その他 蔵の記憶
公開:2026/03/02 更新:2026/03/30

伝えたい「蔵」の記憶(47)幣舞遺跡

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2013.7.29

 幣舞遺跡は釧路郷土史考の幣舞町命名理由の中に、明治30年ごろまでは竪穴があったが、今は破壊されて跡もないと記載され、郷土史家佐藤直太郎さんは著書で、郡役所、公会堂、釧路市役所の建築により竪穴はほとんど壊され、昭和13年の放送局開設により3個の竪穴が潰され、幣舞の竪穴は壊滅した、と述べています。

 釧路川河口左岸の丘陵には、竪穴群やチャシ跡の記録が残され、釧路の先史時代の記憶を伝える幣舞遺跡は縄文晩期「幣舞式土器」の遺跡として知られています。

 遺跡のある幣舞町は、明治18年の釧路郡役所設置後官庁街として発展し、土地の改変ごとに遺物の収集が記録され、遺跡の発見は明治21年で、坪井五郎によって「釧路貝塚」として報告されています。

 貝塚は明治44年の釧路公会堂建設時に、大量の貝殻が出土した記録があり、昭和30年から31年、35年の富士見坂新設、法面工事で、その残存と考えられる大量の貝殻が露出していることが、平成6年3月発行の釧路市幣舞遺跡調査報告書Ⅱの調査略史に掲載されています。

 幣舞遺跡の発掘調査により縄文早期、晩期、擦文期の竪穴住居跡、墓壙、土器、石器などにより、釧路の先史時代の様子を伝える記憶が調査報告書に詳細に掲載されています。幣舞遺跡は幣舞が先史時代から釧路の文化の中心であったことを物語っています。

幣舞遺跡のあった区域は今では文化施設の拠点に

 釧路の多くの人々が出会う生涯学習センター、市立図書館、釧路三慈会病院が建つ幣舞の丘陵は、幣舞遺跡として釧路の先人の記憶を伝えています。

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