その他 蔵の記憶
公開:2026/03/02 更新:2026/03/30

伝えたい「蔵」の記憶(41)釧路川左岸

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2013.6.17

 釧路川の流れは変わりませんが、街並みはいつも変化を続けていますが、どこかに記憶を残しているように思います。

現在の幣舞橋と大川町界隈のたたずまい

 写真は釧路川左岸の大川町の光景です、釧路の春・夏・秋・冬を語る四季の像がある幣舞橋、重厚な日本銀行、港町釧路を物語る船をイメージしたキャッスルホテル、市民が散策を楽しむ釧路川左岸の河畔公園と釧路市民自慢の光景ですが、明治23年発行の北海立志図録の愛北橋の図を見ますと、釧路川左岸に沿う道路が見えます。

 当時は釧路川の川幅が現在の倍もあり、道路の際まで川が迫っていたようです。釧路川左岸の道路は明治・大正・昭和初期までの釧路の中心市街地真砂町から茂尻矢へ通じ、釧路川の水運と同じように塘路、標茶等内陸を結び、釧路の発展を支えた先人の開拓の奮闘を記憶しています。

 大正10年に着工された釧路川の治水工事は幣舞橋の上流の様子を大きく変えます。昭和3年に架橋された4代目幣舞橋の長さは、113・4㍍とそれまでの長さの半分になり、釧路川河畔が埋め立てられ街の様子を変えました。

 昭和7年ごろの茂尻矢(現大川町)の地図を見ると、木材の街に釧路信用組合、商工会議所と釧路経済の中核機能他、衛生組合、専売局などの事務所、戦後も釧路の医療と文化に貢献した瀬戸山病院があり、釧路川河畔の埋め立ては茂尻矢に釧路の南北の街を結ぶ役割を与えました。

 大川町を散策すると、開拓者を乗せた発動機船、港へ向かう筏(いかだ)と先人が奮闘していた往時の街茂尻矢の記憶を感じさせます。

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