その他 蔵の記憶
公開:2026/03/02 更新:2026/03/30

伝えたい「蔵」の記憶(31)茂尻矢界隈

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2013.3.25

 私が子どもの頃に遊んだ御供山、近くを流れる小川での楽しい思い出は、御供山の近くを歩く時にいつも思い出します。

 御供山は、中島のある川岸の地形を言うモシリヤチャシコツと呼ばれるアイヌの砦跡、小川は葦の茂沢を意味するサルシナイ川と昔の茂尻矢を伝えるアイヌ語であると知り、往時の様子に興味を持ち古地図を見ていましたが、釧路市が昭和58年9月26日に発行した北方市民生活に掲載された「大正末から昭和初の茂尻矢(モシリヤ)界隈図」が昔の茂尻矢の様子を伝えていました。

 図には御供山の南側を流れるサルシナイ川、西側に釧路川と川の中に中島が2個見えます。中島のある川岸がアイヌ語地名のモシリヤで、川と湿原に守られた砦サルシナイチャシ(御供山)、釧路が久寿里と呼ばれていた、トミカラアイヌ時代の様子を伝えています。往時の川幅が現在の2倍もある釧路川と葦原が広がる湿原に守られた砦の様子を想像すると、茂尻矢の町名の余韻によりロマンを感じます。

昭和初期の茂尻矢界隈の地図

 さらに図を見ますと、釧路川に流れ込む阿寒川の河口にも中島が見えます。この茂尻矢界隈図で確認できるサルシナイ川、釧路川の中島、阿寒川と中島、茂尻矢の町名も、現在は見ることはできませんが、モシリヤチャシコツ(御供山)が消えた川、中島、湿原の葦原の記憶を伝えています。図が伝える茂尻矢の記憶を発見した感激を次世代に伝える役割を感じました。

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