伝えたい「蔵」の記憶(21)茂尻矢と釧路川
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2013.1.14
釧路の街を南北に結ぶ幣舞橋の南橋詰より上流の釧路川左岸の町は、茂尻矢と呼ばれ、釧路川の記憶を伝える町でした。昭和7年の字地番改正で茂尻矢の一部を大川町と命名された当時の町の様子を「旧名茂尻矢の一部並びに新埋立地にして、幣舞橋南詰より釧路川左岸に属する地区なるを以て、舟運の便第一の位置たり…」と、釧路郷土史考に記載され、その町名は釧路川の恵みを伝えています。

写真は大正初期の大川町から城山町、材木町の光景です。大きく蛇行する釧路川の川幅は現在の2倍もあり住宅地に迫り、川沿いの住宅の前の狭い道路は、現在の日本銀行横の大川町城山道路です。明治初期の釧路有力者の武富善吉、佐々木与兵衛が、釧路川での漁業のために明治21年に開削した道路ですが、上流の標茶まで通じ、奥地開拓に重要な役割を果たしています。
川沿いに住宅が並び、煙突と白い煙が見えます(現在の久寿里橋付近)。明治40年10月に釧路の有力者武富善吉、佐々木与兵衛らが設立した「釧路製材造船合資会社」です。工場の見える街並みからは、釧路川で流送された木材を近代的な設備で製材する新しい産業によって、夢の実現に挑戦する黎明期の釧路人たちのバイタリティーが感じられます。
釧路川に支えられた茂尻矢の木材産業は、釧路の発展に貢献し、水運に恵まれた茂尻矢の記憶を町名の大川町に残しています。



