その他 蔵の記憶
公開:2026/03/01 更新:2026/03/30

伝えたい「蔵」の記憶(19)茂尻矢のはじまり

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2012.12.24

 黎明期の釧路は、港と釧路川を中心として街並みができました。釧路発祥の地米町、釧路川河口左岸の町真砂町、洲崎町、幣舞橋より上流の左岸の町が茂尻矢です。

 現在の町名では大川町、城山町、材木町の釧路川左岸の町と住吉町と広い範囲が茂尻矢と呼ばれていました。茂尻矢は人口の急増が続く明治21年に、アイヌ語で川に島のある所の「モシリヤ」を、茂尻矢の漢字を当てた町名です。

明治23年の釧路川左岸の茂尻矢の風景。橋は愛北橋(初代幣舞橋)

 当時の茂尻矢の様子を伝える、釧路川と中島を描いた明治23年発行の北海立志図録を見ると、アイヌ語のモシリヤ(川の中に島がある)の光景です。中島の側には煙を上げる蒸気船と川の上流につながる電信線は、釧路川上流の開拓の様子が分かり、現在の大川町の通りと思われる川沿いの細い道路、サルシナイ(葦の沢)と呼ばれる地名が伝える葦の茂る湿地が続く地形など、現在からは予想ができない、明治初めの茂尻矢の様子を伝えています。

 当時の釧路川上流では、明治18年に釧路集治監が標茶に開庁、川湯では安田がアトサヌプリ硫黄の採掘を開始、開拓者の移住、木材の伐採など、活発な開拓のつち音が聞かれる時代でした。

 釧路川には水運を活用する航路が開かれ、最新の蒸気船の運航は、開拓者の生活物資、硫黄、石炭、木材などを輸送する、奥地開拓の動脈として活躍しています。奥地開拓に大きな役割を果たす釧路川沿いの町茂尻矢は、釧路川の水運により生まれた町です。

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