伝えたい「蔵」の記憶(15)明治43年の洲崎町
2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。
2012.11.19
釧路川河口左岸のオダイトウと呼ばれた砂州に、洲崎町は明治21年に誕生しました。釧路川左岸は、塘路、標茶との上流を結ぶ河川交通の拠点として、釧路発展に重要な役割を果たす町です。
明治43年当時の市街地図を見ると、明治22年、33年の釧路川左岸の埋立工事の完了により、市街地が拡大し、釧路川左岸の光景が変わり、明治36年には入舟町が新設されて洲崎町の町名の砂州の面影が少なくなりましたが、真砂町、洲崎町は釧路の中心市街地として活況を呈しています。
釧路は明治33年に町制が施行され、明治40年旭川と釧路間の鉄道開通、明治42年釧路港修築工事着工、ニシンの豊漁、木材の活況により町勢を拡大し、東北海道の拠点として急速な発展を続けていました。
明治40年代初めの洲崎町を明治43年発行の釧路港実業家名鑑明細図と明治42年の電話番号簿で見ますと、釧路町役場、啄木の下宿の関サワ、笠井病院が見え、掲載された広告を見ると、食料品問屋佐々木米太郎商店、仲仕業小船井組、正置鉄工場などが見られ、その他請負業、問屋、漁商、鉄工場などの広告が掲載されている。洲崎町が釧路川左岸であった当時の記憶を伝える仲仕業、海陸諸機製造業、土木請負業が見られ、商店の並ぶ真砂町とは違う街並みでした。
広告に掲載された小船井組を電話番号簿で見ますと、小船井亀次郎、洲崎町番外地、電話番号323番と掲載されています。小船井組はその後、釧路の発展を支える企業に成長します。




