その他 蔵の記憶
公開:2026/03/13 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(372)釧路川筏

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2021.4.5

 釧路川は、釧路の黎明期の明治時代から木材の集散地釧路として発展を支え、下る木材の筏(いかだ)の変遷を見続けていますが、昭和38年釧路川上流右岸の雪裡太で水面貯木の建設に着手し、木材の集散地釧路と筏の新しい時代を迎えます。

釧路川の筏

 写真は、昭和30年代後半の幣舞橋近くの釧路川中央に係留されて貨物船への曳航を待つ筏です。

 筏は、釧路地方の木材の運搬が鉄道の貨車運搬(阿寒川大正12年、釧路川昭和6年)が始まるまでは、川の上流で多量の木材を筏に編み、流下させる筏流しが主流で、釧路川に木材の筏が溢れている大正時代の木処釧路を伝える光景が絵はがきに残されています。

 鉄道の貨車運搬が主流となる昭和初期以降の筏は、久寿里橋上流の貨物駅天寧がある天寧(現材木町)と茂尻矢(現城山町)の土場で木材を受け入れ、貨物船積み込みのため、釧路川で筏組みして貨物船へ曳航します。土場が連なる一帯の釧路川は、筏、艀(はしけ)が行き交い、漁船の出入りもある賑わいは釧路港の心臓とまで云われ、戦後の昭和29年5月9日の台風15号で発生した風倒木処理の最盛期では、150石から200石を筏にして沖だしし『「釧路港100万石船積」を達成した』と筏の活躍を三輪運輸の社史が記述しています。

 釧路川の筏は、筏師に操られ上流から流下した光景や、釧路川左岸の土場で筏に組まれ船で沖だしの光景と、何時も港へ向かっていましたが、昭和30年代後半からは輸入外材に対応して、港から川上へラワン材の筏を曳航する光景に変わり、釧路川の筏は木処釧路の変貌の記憶を伝えています。

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