その他 蔵の記憶
公開:2026/03/04 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(96)昭和27年幣舞橋

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2014.9.8

 荘重で優美な4代目幣舞橋ですが、昭和20年の釧路空襲の被災の跡を残しながら、戦後の復興に取り組む釧路市民の姿を記憶しています。

力強く戦後復興を進める昭和27年の幣舞橋の様子

 写真は昭和27年頃の幣舞橋から北大通の様子です。戦災の跡を残す幣舞橋には、多くの市民と買い物帰りらしい割烹着姿の女性、バスが見えます。戦災で焦土となった北大通の東側には、旗をなびかせる丸三鶴屋、再建された商店が並び、北橋詰には消防本部の火の見やぐらが見え、復興の足音が感じられます。

 戦後の釧路は、漁業、石炭の太平洋炭砿、紙パルプの十条製紙の主要な産業が再開されて、力強い戦後復興が開始されます。

 復興期の釧路の様子を見ますと、昭和20年に戦後復興計画がまとめられ、太平洋、雄別の石炭の生産が再開されます。昭和22年には、六・三制による新しい教育制度が始まります。昭和24年は釧路市と鳥取町が合併し市勢を拡大します。食料不足の時代に、サバ旋網漁業が未曽有の豊漁となり、市民の食卓はサバ、サバでしたが、全国から漁船が釧路に集結し、釧路川を埋め尽くすように係留された漁船を、幣舞橋から見る活況は釧路市民に勇気と元気を与えてくれました。

 釧路は昭和27年3月4日震度5の強震と津浪の十勝沖地震に被災します。地震に耐えた幣舞橋は、津浪の襲来に橋北地区から幣舞の高台へ避難する市民に安心を与えています。4代目幣舞橋の役割は、主要交通路の機能だけなく、市民の心をつなぎ次代へ釧路の歴史、文化と市民生活の記憶を伝えています。

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