その他 蔵の記憶
公開:2026/03/04 更新:2026/04/23

伝えたい「蔵」の記憶(95)南橋詰からの北大通

2012年から釧路新聞・文化欄で連載された木村浩章さんの「伝えたい「蔵」の記憶」を全回数分デジタル掲載します。屋号などの特殊文字については仮名表記に修正。見出し、本文、写真につきましては掲載当時のままとさせていただきます。

2014.9.1

 オベリスクふうの親柱を持つ4代目幣舞橋は、昭和3年に完成して約半世紀にわたり釧路市民に多くの記憶を伝えています。橋の役割を考えると、機能的な交通路としての役割の他に、地域の生活文化、景観を含め地域の心の懸け橋として地域の生活に溶け込んでいます。

焼け野原になった北大通東側の商店街

 写真は、釧路空襲による戦災の跡の記憶を伝える昭和20年の終戦後の幣舞橋南橋詰から北大通東側と末広町、栄町辺りの橋北です。「昭和20年7月14日午前5時、突如敵機来襲せり」と釧路市史は記載しています。

 7月14、15両日の空襲の被災は市内全域に及びますが、写真を見ますと、幣舞橋を中心とする橋北地区も北大通5丁目までの東側から末広町、栄町、旭町が焼失し焦土と化しています。幣舞橋の南側を見ますと、親柱が被弾し崩壊し見ることができません。

 空襲の被害を受けた橋北の人たちは、激しい空襲に耐えている幣舞橋を渡り富士見町、浦見町などの山の上に避難しました。被災を受け避難をした古老が、空襲の時の幣舞橋の雄姿は避難をする人たちに力を与えたと、語っていたのを思い出します。

 昭和20年8月15日太平洋戦争は終了し、廃墟から戦後の復興が始ります。終戦直後の混乱する市民生活の中で、空襲の跡を残しながらも交通には支障がない幣舞橋は、橋南と橋北の交流を支え、釧路市民生活に安心を与えています。

 釧路地方では、終戦直後に雄別と太平洋炭砿の生産が再開、漁業の操業再開と復興が始まり、被災した幣舞橋も新しい役割の時代を迎えます。

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